経歴のスタート地点
中村美咲さん(31)は、生命科学系の修士課程を修了後、大手製薬企業のR&D部門にデータサイエンティストとして入社した。担当は創薬ターゲットの予測モデル開発と、臨床試験データの統計解析。Pythonとscikit-learn、PyTorch、そしてJupyter Notebookが日々の道具だった。
「Jupyter上で前処理から学習、評価まで全部できる。論文を書いたり社内報告会で発表したりするにはこれで十分だった」。彼女のモデルは社内で評価され、3年目には学会発表も経験。R&D内では将来を期待される若手の一人だった。
しかし4年目、転機が訪れる。会社が外部の医療機関にAIサービスとしてモデルを提供する事業を立ち上げ、彼女のモデルが第1弾の候補に選ばれたのだ。「私のNotebookが、本番システムになる――嬉しいというより、青ざめました」。
最初のつまずき
最初に立ちはだかったのは、Dockerだった。「Notebookで動くコードを.pyに書き直すところまではできた。でも、それをコンテナに包んで、サーバーで動かすという発想が、まったく身体に入ってこない」。docker build、docker run、docker-compose――コマンドは打てても、なぜ層が分かれているのか、なぜイメージとコンテナが別概念なのかが理解できない。
次の壁はCI/CDだ。R&D時代はGitすら最低限の使い方しかしてこなかった。「git push でmainブランチに直接コミットしていた私が、PRレビューとGitHub Actionsの世界に放り込まれた」。テストが通らないとマージできない、デプロイは自動化されている、モデルファイルはS3にバージョン管理して保存する――どれも研究環境にはなかった概念だった。
そして最大の壁は、モデルのバージョン管理だった。「実験ごとにmodel_v3_final_final2.pklみたいな名前で保存していた自分の習慣が、本番運用ではまったく通用しない」。再現性、トレーサビリティ、ロールバック――SREチームから飛んでくる単語が、最初は外国語のように響いた。
転機 — 本番運用との対峙
潮目を変えたのは、SREチームのテックリードがメンターについてくれたことだった。彼は中村さんに『Docker/Kubernetes 実践コンテナ開発入門』と『GitHub CI/CD 実践ガイド』を渡し、「コードと一緒に読んでください」とだけ告げた。
中村さんは週末に手を動かしながら読み進めた。最初はDockerのレイヤーキャッシュの仕組みが理解できた瞬間。「ベースイメージは共有されて、変更分だけが新しいレイヤーになる――これは実験の差分管理と同じ発想だ」。データサイエンスの語彙で再翻訳できた瞬間、コンテナは“怖いもの”ではなくなった。
GitHub Actionsを書けるようになると、毎朝モデルを再学習し、評価指標が閾値を超えたら自動でデプロイするパイプラインを自分で構築できた。さらに『入門 継続的デリバリー』でブルーグリーンデプロイやカナリアリリースを学び、本番影響を最小化する設計の考え方を身につけた。
半年後、彼女は社内初の「医療AIサービス」のローンチを成功させた。さらに『オブザーバビリティ・エンジニアリング』を読み込み、モデルの推論結果に対するモニタリング基盤までを自分の手で構築した。
いま振り返る選書
中村さんがMLOpsエンジニアへの転身で支えになった5冊。
- 『Docker/Kubernetes 実践コンテナ開発入門』: コンテナの世界観を実験ノートブックの語彙で理解できた。
- 『GitHub CI/CD 実践ガイド』: 自動化パイプラインを“自分の手で書ける”ようになった転機。
- 『入門 継続的デリバリー』: 安全にリリースするための設計思想を学んだ。
- 『オブザーバビリティ・エンジニアリング』: モデルが本番でどう振る舞うかを観測する力を授けてくれた。
- 『Kubernetes 完全ガイド』: チームがk8sに移行する際に何度も参照した実務書。
「研究と運用は別物だと思っていたけれど、本質は“再現性”という同じ価値観だった」と彼女は語る。
これから挑む人へ
データサイエンティストからMLOpsへ移る人は、これから増える。中村さんはこう助言する。
第一に、Notebookを離れる勇気を持つこと。.pyファイルとモジュール分割、テストコード――これらは“エンジニアの作法”ではなく、再現性を担保するための科学者の作法でもある。第二に、Docker・CI/CD・モニタリングの3つは順番に攻めること。すべてを同時に学ぼうとすると挫折する。第三に、SREチームを“別の世界の人”ではなく“最高の共同研究者”だと捉えること。
「次の3年で、データサイエンスとSREの両方の言葉を話せる人材として、社内のMLOps基盤をリードしたい」。彼女のJupyterは、もう本番サーバーの一部になっている。

